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      <title>Weep for me - ボクノタメニ泣イテクレ</title>
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      <description>Weep for me - ボクノタメニ泣イテクレは、管理人lylycoがただ思ったことを書き散らかすためのサイトです。基本的にコメント、トラックバックは歓迎です。ただし、スパムフィルターや管理人判断で、スパム判定されたり無関係と判断された場合は、公開されなかったり、公開された後に消えたりすることがあります。予めご了承ください。なお、当サイトでは、一部アフィリエイトプログラムを利用しています。</description>
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         <title>「叩き上げリア充」vs「陽の下に出てきた非コミュ」の聖戦</title>
         <description>橋下大阪市長と反ハシズム派論客の話である。

それほど熱心にウォッチしているわけではないけれど、1月27日の朝生の一件やら何やらを眺めていると、どうにも居心地の悪い思いが拭えない。原因はおそらく、ぼくが反ハシズム側に近しい心性の持ち主でありながら、議論上の態度としては橋下市長支持だからである。叩き上げのリア充たる橋下市長が、陽の下に出てきた非コミュたる香山氏、薬師院氏をフルボッコ。あの日の朝生の印象を要約するとこうなる。他の面々は、ほとんどこのふたりが作り出した負の大竜巻に巻き込まれた形で、強弁がすぎるばかりの共産党山下参議院議員含め、有意義な論陣を張れる人間はいなかった。とりあえず対話になっていたのは自民の柳本市会議員くらいだったように思う。あれでは勝負になりようがない。

市長による名指しの批判が引っかかり続けて、個人的な恐怖心や不安を社会現象に仮託し、弱者切り捨て論で共感を得ようとするも理路が定まらず、生彩を欠き続ける香山氏。やろうとしていることの是非はわからないが、市長の「やり方」がとにかく許せない、と必死の猫パンチを繰り出し続ける薬師院氏。政治がわからないことにかけては人後に落ちない自信のあるぼくでも、彼らのやり方が政治的に力を持ち得ないことくらいはわかる。どころか、反橋下派にとっては百害あってなんとやらだろう。そもそも非コミュと政治ほど相性の悪いものはない。政治というのはコミュニケーションそのものだからだ。自らの内面を覗き込みながら生きる非社会的な人間に、政治的説得力など持ちようがない。

旧態依然なシステムの再構築という「戦略」を持って挑む橋下側からすれば、政治手法や個別の政策といった「戦術」面で瑕疵を指摘されることはさしたる問題ではない。「戦術」は「戦略」のために常に修正、最適化されるべきもので、最初からすべて正しいなんてことはあり得ない。橋下市長自身も、そのことに意識的な発言を繰り返している。曰く「意見は人それぞれ」「よりよい対案があるなら出してください」。彼らの議論を政治的な論争だと思って見ている観客にとって、これほどわかりやすい図はない。橋下サイドの「戦略」そのものを否定できる反ハシズム論客は皆無で、「戦術」についてすら瑕疵を責めるのみでより最適な解を提示するに至らない。政争の士としてはポンコツである。

結局のところ、香山氏も薬師院氏も端から上がる土俵を間違えている。政治的な論争はコミュニケーションのプロフェッショナルに任せるべきだ。彼らは政治闘争になど与せず、ただ市井の声のひとつとして不安や恐怖を訴え続けていればいい。そしてその恐怖の正体を、恐怖を感じざるを得ない「弱者」としての声を、きっちりと言葉にしていくべきだろう。彼らの戦えるフィールドはそこにしかない。ぼくは彼らの恐怖心や不安には十二分に共感している。橋下的な効率化推進の潮流が、社会の「全体最適」に向かうことは想像に難くない。そのときぼくが「全体最適」の犠牲になる、取るに足りない「部分」である可能性は低くない。いざとなれば、自ら属する「部分最適」を主張したくもなろう。

それでもぼくが橋下支持なのは、「全体最適」の末に「部分」の再浮上を期待するからだ。もちろん、再浮上の前に死んでしまうリスクはある。彼を支持するとは、そういうことだ。一方、あらゆる切り捨てを許さないという主張があり得ることもわかっている。全体のために部分を見捨てざるを得ない状況が出来しても、断固として判断を保留し続けるという「正義」はあろう。自らの意志でマイノリティを殺すくらいなら、もろともに死んだ方がマシだ。そう信じるなら「弱者を殺すくらいならみんなで死を選ぶ社会」という「戦略」を掲げればいい。いずれ、反橋下派に必要なのは、陽の下で心情を吐露する非コミュなどではなく、「戦略」をもったコミュニケーションのプロたる「孔明」だろう。

とはいえ、すでに「孔明」は橋下派に与しているのかもしれない。</description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
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         <pubDate>Thu, 02 Feb 2012 14:56:05 +0900</pubDate>
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         <title>マラソンは何故42.195キロなのか？</title>
         <description>小学校低学年くらいの利発そうな少年が母親と話しているのを、聞くともなく聞いていた。

「マラソンてなんで42.195キロなん？」「ん？」「中途半端やん」「そうやねえ。なんでやと思う？」「うーん…昔は道の計り方がいまみたいにちゃんとしてへんかったから？」「それはあるかもしれへんねえ。でも、それやったらいまは42キロとか40キロとかにしたらええよねえ」「うーん」「距離の単位てキロだけとちがうから、他の国の計り方やったらちょうどなんかもしれへんねえ」「外国は計り方ちがうん？」「普通はキロやけど、イギリスとかアメリカやったらマイルっていう単位かな」「マイルやったらちょうどになる？」「うーん、それはわからへんけど」

正確ではないけれど、およそそんな内容だった。学校はもう始まっている時間だったから、病院にでもいっていたのかもしれない。会話はこの後も続いて、昔の日本にもキロじゃない単位があったとか、重さの単位も色々あるとか、そんな話をしていた。結局、母親も42.195kmの答えは知らず、「帰ったら調べてみようね」ということになっていた。別にどうという話ではないけれど、なかなかどうして、小学校低学年くらいの子供相手にこんな風に話せる大人というのは珍しいように思う。ぼくがあの少年を賢そうな子供だと思ったのも母親との会話あっての印象である。

電車や街中でよく見かけるこのくらいの年頃の親子の会話には、どうにも粗雑なものが多い。いい加減にいなしてみたり、いかにも教育してやるという態度だったり、自分のスマートホンに夢中だったりして、ちゃんと子供と向き合って話している姿というのはあまり見かけない。まあ、それだけ子育ては大変だということなのかもしれないし、時と場合によってはちゃんと話しているのかもしれない。わが子を叱る親を見て、なるほど、確かに子は親の背を見て育つんだなあと思うことは多い。ぼくには子供がないからわからないけれど、うまくやる自信はまったくない。

いずれにしても、自分の興味や知識いかんに関わらず、子供の興味に合わせて話をリードできるというのはちょっとした才能だろう。「マラソンは何故42.195kmなのか？」という疑問から発して、あの少年が学んだことは少なくない。家に帰って母親と一緒に調べるとき、また別な発見だってあるかもしれない。クダラナイと思って相手にしなければそれまでである。もちろん、子供はすぐに興味を失って忘れてしまうかもしれない。それでも、たとえ徒労に終わっても、興味や可能性を広げてやることは親が子供にしてやれる数少ない教育のひとつなんじゃないかと思う。

ちなみに42.195キロは26マイル385ヤードで、この半端にはちょっとした逸話がある。</description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">身辺雑記</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">教育</category>
        
         <pubDate>Fri, 27 Jan 2012 12:05:31 +0900</pubDate>
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         <title>「ぼくは年間500冊」「私は質の50冊」「オレは本より実体験」</title>
         <description>本について自らのスタンスを表明する人は多い。

ぼく自身もいつかやらかしたような気がするし、わりと誰しも通る道なのかもしれない。いうこともだいたい決まっている。タイトルはその典型。顕在化するパターンにまで典型があって、まず、読書量を自慢気に発表しちゃうウッカリ者が現れる。それが100冊だろうが500冊だろうが本人にとっては「つい発表したくなっちゃうような読書量」だったのだから「へえ、凄いね」といって印象に残った本の話でも訊いてやればいいのである。が、よほど腹に据えかねるのか、今度は水を差すウッカリ者が現れる。曰く「読書は量より質だ」或いは「書を捨てよ、町へ出よう」

本をたくさん読むのは悪いことじゃない。上には上がいるとわかっていても、初めて100冊に達した年の瀬につい吹聴したくなる気持ちはよくわかる。書店に平積のミステリやラノベやビジネス書や自己啓発書、雨後の筍のごとくに湧いて出る新書など多読に向いていそうな本はいくらでもある。こういう「一般に読みやすいだろう本」ばかり読んでいるのだとしても、本人が愉しいならこれは大変に有意義な読書である。たくさん読まなきゃ得られない体験もあろう。このスタイルが性に合わない、或いは、卒業したとからといってわざわざ腐してみせるなどは無粋である。

一方、より難解な専門書、より晦渋な文学、より実践的な実用書なんかをじっくり精読する人が、「自分は質の高い読書を満喫している」と吹聴したくなる気持ちもよくわかる。難解な本を読み通すことで得られる快感というのは確実にあるし、晦渋だからこそ味わえる妙味というものもある。実践的な読書のお陰でビジネスパーソンとして成長著しい自分を発見する、というのもこのご時勢なら強力な自己承認をともなう立派な娯楽だろう。これもまた有意義な読書である。精読することでしか得られない体験もあろう。が、その意義は量の読書を否定するものではない。

それら読書派を横目に、恋愛に勤しみ、インドを旅し、山に登り、ボランティアに参加し、世界を肌身で感じている人が、「自分は机上では得られない実体験を積んできた」と吹聴したくなる気持ちもわかる。恋も旅も喜びも悲しみも、或いはありふれた人間の生や死も、頭と体とでは理解の仕方に違いがあるのは当然だ。実体験がもたらす圧倒的で明文化し難い実感に人生の真実を幻視する。これまた魅力的な娯楽であり、実に有意義である。実践でしか得られない体験もあろう。が、机上で得られる体験と町で得られる体験は、包含関係や上下関係にあるわけではない。

量の読書で充実している人と、質の読書で充実している人と、町に出て充実している人が、それぞれの充実を主張するために互いを否定しあう必要はない。隣人の承認欲求がちょっと顔を覗かせたくらいでフルボッコに叩き潰してやらずともよかろう。彼我の意義は並び立たぬものでもない。それでも叩く人がいるのは、主張の内容いかんに関わらず「叩きのめす」こと自体がひとつの娯楽だからだろう。誰かを叩くことで全能感なり自己肯定感なりを得るというのもまた、有意義な人にとっては有意義な人生の愉しみ方だろう。その人なりの人生の妙味があるに違いない。

いずれ、人生の意義、幸福といったものの多様性を否定することは、自らの可能性を狭めることでもある。</description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">人生</category>
        
         <pubDate>Mon, 23 Jan 2012 13:16:03 +0900</pubDate>
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         <title>婚活男女が求めているものは結婚ではない何か</title>
         <description>周囲でもリアルに婚活やそれに類する話を耳にするようになって久しい。

ずっと不思議に思っていた。いまこの時代、この国の一般庶民にどうして「結婚」なんてものが必要なんだろう、と。生活を伴にしたい異性が既にいるというのならまだ理解る。男女が一緒に暮らすなら制度的に結婚してしまうのがいちばん「楽」だろうと思うからだ。逆にいえば、結婚になんてその程度の意味しか見出せない。そういう人間が増えた。だから、見合いなんて結婚促進制度は廃れ、既婚率が激減しているんだと思っていた。が、思い違いをしていたらしい。切実そうな顔をして婚活に励む知人たちの話を見聞きしていると、もはや考えを改めざるを得ない。

そもそも既婚率が高かった時代の結婚の多くは強制に近いものだったはずだ。一から自分で相手を選んで自分のタイミングで結婚したなんてカップルはそう多くなかったろうと思う。つまり、既婚率低下の直接的な原因は、親族手配による強制婚の撃滅、お節介婆の絶滅、終身雇用下における上司からの紹介制度の廃滅といった、各種システマチックな結婚の消滅ということになろう。こうしてぼくたちは「望まない結婚」の頚木から自由になった。これは歓迎すべき消滅、来るべき自由だったはずだ。そして「ロマンスの帰結」としての結婚だけが無意味に取り残された。

変わったとはいっても、ぼくたちの親世代くらいになると「年頃になれば結婚するのが当たり前」だと思っている人は少なくない。こうした年長者たちによる狂信的かつ執拗な「結婚プレッシャー」はいまだ健在だろう。けれども、そんな外圧もすでに実効力を失いつつある。10代の終わり頃には仕送りとバイトで悠々自適のひとり暮らしを始め、そのまま就職してしまっていつのまにか独立、たとえ実家暮らしでも快適な自室に引きこもって親戚どころか親の顔もほとんど見ずに年頃を迎える。身近な他人もあまりプライベートなことには口出ししないことになっている。

そんな生活が染み付いたイマドキの人間が、旧来的な「結婚」を望んでいるとはとても思えない。昔風の見合いのごとき強制婚をすら望む声も聞こえるが、嘘に決まっている。あてがわれた相手を無条件に受け入れるのが、真に旧来的な強制婚の姿である。一方、友人知人に紹介された相手どころか、お金を払ってまで出会った相手ですら選り好みして結婚しないのが、多くの婚活男女の実態である。高望みはしないといいながら、「いままで出会えなかったレベルの相手」を探すのが婚活の本心だろう。それは、相手如何で自分の幸福が決まると思っている証左でもある。

「気侭な孤独」を満喫してきたはずが、いつのまにか幸福感という意味で逼塞しつつある。そんな人間が「結婚」という旧来的でわかり易い「人生のターニングポイント」に逃げ場を求めている。しかも過去の遺物でしかない「ロマンスの帰結」の本末が転倒して、婚活にロマンスを求めている節さえ感じられる。だから、これまでに出会っては却下してきたレベルの人間は要らない。…実につまらない話である。結局は他人に下駄を預けて幸せになろうとしているにすぎない。「いまここにいる不本意な自分」を矯正してくれるような「出会い」や「結婚」など夢である。

婚活なんて軽薄な流行がつまらない自分を「ここではないどこか」へ連れていってくれようはずがない。
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         <link>http://diary.lylyco.com/2011/12/post_365.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
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         <pubDate>Tue, 27 Dec 2011 15:03:14 +0900</pubDate>
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         <title>心身のリズムをつくる“週末リセット”のススメ</title>
         <description>ひと月ほど前から唐突にランニングを始めた。世間ではちょっとした流行らしい。

といっても、ぼくは土日祝だけの休日ランナーである。もとより平日に走る余裕なんてない。労基法と相性のいいデザイン会社？そんなものの存在をぼくは認めない！ぼくの目が黒いうちは…いや、今はそんな話はどうでもいい。とにかく、思い立ったが吉日とばかりに安手のウェアとシューズを買い込み、いきなり走り始めたのである。手持ちのTシャツやスニーカーで始めなかったのは、ただただテンションをあげるために他ならない。ついでに iPod shuffle まで買ってしまった。勇み足である。それはともかく、これが思いのほか悪くない。むしろ快適なのである。

もうかれこれ20年近くもロクな運動をしてこなかった。当然からだは辛い。が、意外に早く慣れる。いや、慣れる程度以上には無理をしない。これが肝要である。ぼくの場合は、近所の緑地公園を30分。スピードや距離には必要以上に固執しない。とにかく30分走りきる。それ以上のハードルはとりあえず課さない。その程度の気持ちで走り始めても、1日目よりも2日目、1週目よりも2週目の方が、明らかにからだが軽くなっている。筋肉痛に襲われたのも最初の2日くらいで、翌週からは脚の張りもなくなった。その辺りからである。平日もからだが楽なことに気が付いた。

まず、酷い背中のコリがずいぶんとマシになった。血行の問題だろうか。インドメタシンはもう要らない。それに走って疲れるせいか、その日の夜はよく眠れる。日頃、不眠の気があるぼくとしては愉快なことこのうえない。もちろん1週間の寝不足がひと晩で解消される道理はないけれど、朝の辛さはいくぶんマシになったように思う。月曜の朝、起き抜けのテンションが明らかに違う。おかげで平日のデスクワークが以前よりもずっと楽になった。これだけでも仕事に対する気持ちが違ってくる。からだが辛いと心も弱る。やる気の8割は、たぶん、元気でできている。

もうひとつ大切なことがある。走るなら「朝」だ。これで自然と前の晩は夜更かしを避けるようになる。金曜の夜だからといって無闇にフィーバーしたりしない。酒量が減って経済的でもある。近頃なんて、気が付けば平日より早い時間に起きている。顔を洗って目を覚ましたらすぐに着替えて家を出る。持ち物はタオル、腕時計、財布、それからキーケース。公園まで自転車で行き、念入りに準備運動をしてから走り出す。…30分後、軽く整理体操をして公園をあとにする。コンビニでアクエリアスを買い水分補給などしつつ帰路につく。全行程で1時間ほどだろうか。

帰宅し、シャワーを使ってさっぱりする。この段階で、まだまだ全然「朝」である。昼近くまで寝ていたときより、からだもずっとよく動く。朝日で生物時計がリセットされ、全身が快適なリズムを取り戻している。そんな気がする。これで休日の過ごし方がまったく違ってくる。とにかく、1日が長い。やることをやってもまだ十分に時間がある。何かをやろうという気力もある。実のところ、週末ランニングのいちばんの棚ボタがこれだ。休日が充実する。おかげで心身ともに気持ちよくリセットされ、1週間分の澱がきれいに濾過される。いまのところ、副作用はない。

こうした自身の変化が、いまは楽しくて仕方がない。ランニング用のプレイリストを作るとか、冬物のウェアを物色するとか、周辺の楽しみもある。今日は脚がよくあがるとか、からだが重いとか、その日の体調のバロメーターにもなる。走り終えて1週間の疲れがドッと出るような日は迷わず昼寝をする。そんな日は日がなゴロゴロと過ごしても後悔はない。何よりランニングは孤独だ。自分のからだや景色や音楽、或いは、思考の中に没入できる。これがぼくには向いている。そのうち飽きるかもしれないけれどそれでも構わない。苦痛ばかりになるならやめればいい。

いずれ軽薄な流行だなどと馬鹿にせず、何でも一度はやってみるものである。</description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2009/09/post_366.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">身辺雑記</category>
        
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         <pubDate>Wed, 30 Sep 2009 12:24:15 +0900</pubDate>
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         <title>消えたベルキューブ〜続報</title>
         <description><![CDATA[６月に書いた「<a href="http://diary.lylyco.com/2009/06/post_321.html">消えたベルキューブの行方を伊藤ハムに問い合わせてみた</a>」の続報。

秋から冬頃を予定しているという話だったベルキューブの復活がいよいよ具体化してきたらしい。実に「嬉しい」と「じれったい」が相半ばする知らせである。結論からいえば、伊藤ハム側の取り扱いとしては11月1日（日）より販売開始、ただし、各スーパー店頭での取り扱いが休止以前の店舗数に戻るのは来春になるとのこと。春の棚替えといえばたいてい３月頃だろうか。即時取り扱い店舗が近所にあればいいけれど。ともあれ、あのときの問い合わせがいまだきっちり継続処理されている伊藤ハム広報の管理体制に驚愕しつつ、以下にメールの内容を転載しておく。

<blockquote>平素は弊社商品にご愛顧賜り、心よりお礼申し上げます。<br />以前、お問い合わせいただきました、ベルキューブ・アソート品<br />（ビストロ、ア・ラ・プロバンス、フロマージュ)３種につきまして、<br />販売再開時期が決まりましたので、お知らせさせていただきます。<br /><br />【販売開始】…11月１日(日)より<br /><br />【お詫び】<br />各スーパー様では季節ごとに店頭に陳列される商品の棚替えを行っております。<br />今回、フランスからの入荷時期が遅れたこともありまして、秋の棚替え終了後に<br />入荷することになり、取り扱っていただけるスーパー様が減っております。<br />ご迷惑をおかけし、大変申し訳ございません。<br /><br />次回の棚替え（来春）には、販売休止以前通りの販売店舗数に戻る予定ですので<br />何とぞご理解賜りますよう、宜しくお願い申し上げます。</blockquote>


おそらくは、棚の陳列にある程度融通の効く店舗から順次仕入れが始まるんだろう。逆に、売れ行きに多大な影響を与え、それゆえに棚の取り合いが熾烈を極めるであろう大手スーパーなんかは来春になる可能性が高いのかもしれない。まあ、スーパー業界になんの伝手も知識もないぼくの予想に信憑性なんてこれっぽっちもないわけだけれども。だったらあれこれとない知恵を絞ってみても始まらない。実はダメ元でこの秋から入手可能な取り扱い店舗について、再度問い合わせをしているところだ。運良く有用な情報が手に入るようなら、またここで報告しようと思う。

ああ、はやく家呑みの食卓にベルキューブの「ビストロ」を並べたい！]]></description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2009/09/post_364.html</link>
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         <pubDate>Tue, 29 Sep 2009 08:55:00 +0900</pubDate>
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         <title>マスコミ衰退と非コミュ増大の相関と未来</title>
         <description>人と上手くコミュニケーションがとれない。

とりわけ言葉が不如意なわけでも、端からコミュニケーションの意思がなかったわけでもない。にもかかわらず非コミュ化する。コミュニケーションから遠ざかる理由がみんな同じだとは思わない。けれども、理由のひとつがコミュニケーションの「不可能性」への自覚であることはたぶん間違いない。コミュニケーションというのはバーバルにしろノンバーバルにしろ、それが伝えるところに「共通の理解」があると信じることでかろうじて成り立っている。比喩的に「共通の言葉を持つ」といい替えてもいい。共通の言葉を支えるのは、要するに「共通の価値観」である。

マス・コミュニケーションというのは、実にいい得て妙だなと改めて思う。マスコミは「大衆の価値観」を発信、或いは、再生産するための装置として、これまでよく機能してきた。多くの人が同じ豊かさを求め、同じ享楽に身を委ね、同じ幸福を夢見ることができた。それは、ひとつには高度経済成長が生んだ共同幻想だったんだろう。マイホームは夢であり、恋愛は人生の彩であり、円満な家庭は幸福の象徴だった。新しく家電製品を買うことについて、好きな異性ができたことについて、マイホームのための貯蓄について、誰もが同じように語り合うことができた。

マスコミとマス（大衆）は価値観をキャッチボールし合い、互いにその価値観を強化し合ってきたんだろう。マスコミは文字通りマス（大衆）とコミュニケーションし、同時に大衆の間で消費されてきた。人々はマイホームという価値観を消費し、恋愛という価値観を消費し、幸せな家庭という価値観を消費した。三種の神器や3Cのような具体的なモノか幸福のような抽象的なものかにかかわらず、マス消費時代にはそれらが「共通の言語」として十分に通用した。それらの価値観に基づいてコミュニケーションする限り、多くの人々はちゃんと「解り合えた」のである。

風穴を開けたのは、おそらく「情報化」である。最大公約数的なマス（大衆）みたいなものは、当然、実在しない。幻想である。情報化以前、個人が知ることのできる自分以外の個人には限りがあった。だから、共同幻想の下に「多様性」は隠蔽され得た。それが明るみに出始めた。価値観はたぶん多様化したわけではない。その多様性が発見され始めただけのことである。「共通の価値観」を前提とするマス・コミュニケーションにとって、これは極めて重大な変化である。あえて「マスコミ」と書かなかったのは、それが大衆間のコミュニケーションをも含むからだ。

要するに、「価値観の多様性」と「コミュニケーション」はトレードオフなのである。過渡期において「価値観の多様性」に自覚的な人、或いは、自覚的にならざるを得なかった人ほど「コミュニケーションの不可能性」に直面しやすくなるのは、個人の問題というよりはコミュニケーションそのものの「本質」に関わる問題である。そして、共同幻想を幻想と認識した瞬間、コミュニケーションは不可能である、ということが前提になる。そこに「非コミュ」が生まれる。逆にいうなら、「非・非コミュ」にはいまだマス・コミュニケーションが「効く」可能性が高い。

いま、不自然なマスコミが衰退し、自然な非コミュが増えつつある。ぼくにはそんな風に見える。けれども、コミュニケーションというのはマスに限らず、元来「不自然」なものだったはずである。解り合えないのが当たり前の人間同士がなんとか意思を伝え合おうと努力してきた。その結果、「言葉」をはじめとするコミュニケーションが発達してきたんだろう。それが、共同幻想にどっぷり浸かっているうちに、いつの間にかコミュニケーションの「不可能性」を忘れ、芋蔓式に「解らないものを解り合おうとする努力」までが放棄されつつある。いわば、退化である。

いまこそ、マスに頼らない本当のコミュニケーションを模索すべきときなのかもしれない。</description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2009/09/post_363.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
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         <pubDate>Thu, 24 Sep 2009 08:57:10 +0900</pubDate>
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         <title>300円分のお米と300円分のお金の決定的な違い</title>
         <description>ベーシックインカムやなんかの話を見聞きしていると、世の中倒錯しているなと思う。

いや、倒錯しているのはぼくの方なのかもしれない。何の話か。お金とモノと価値の話だ。どうもみんな、他人が決めた価値を無批判に受け入れすぎなんじゃないかと思うのである。当たり前のことだけれど、300円分のお米と300円分のお金はまったく別のモノだ。なぜなら、モノの価値にはふたつの側面があるからだ。ありていにいうなら、「自分にとっての価値」と「みんなにとっての価値」である。いまにも飢えて死にしそうな人にとって、300円分のお米と300円分の消しゴムの価値は同じではない。それを同じだと思うためには、そう思える程度には裕福でなければならない。

そもそも、貨幣というのは交換を前提とした道具である。交換というのは余剰があって初めて正常に成り立つものだろう。余剰を出し合って必要なモノや何か別の余剰なモノと取り換える。人として最低限の衣食住すら余剰だというつもりがないなら、それはお金に変えられるものではない。誰かと交換してもいい「余剰の価値」を交換相手と擦り合わせる。それで、レートが決まる。そうやって決められたレートを数値化した先にお金はある。つまり、お金が担保する価値は多数決で決められた「余剰の価値」である。余剰でないモノの価値をお金で量ることは、原理的にできない。

お金というのはつまるところ、「強者の価値観を数値化したもの」にすぎない。もっというなら、強者のルールで遊ぶための「チップ」である。だから、「最低限の衣食住を賄えるだけのお金を手にしている」ことと「最低限の衣食住を手にしている」ことは、まるで意味が違っている。衣食住にさえこと欠く人間にお金を与えることは、「チップ」を渡して強者のルールで遊べといっているようなものだ。ベーシックインカムなんてものを考えるくらいなら、最低限の衣食住を現物支給する方がマシだとさえ思う。弱者が強者のゲームから降りられないというのは理不尽ではないか。

人は「お金がないと生きていけない」わけではない。みんなで「お金がないと生きていけないゲーム設定にしている」だけのことである。力を蓄えて強者のゲームに参加する気になれば、自ら進んでそうできる。そのとき初めてお金が必要になる。原始的な弱肉強食を信奉するのでない限り、その程度には成熟した社会を目指すべきだろう。余剰は生きる愉しみであるべきだ。なのに、「強者のルール」に殉じる人間が後を絶たない。お金のために死んでしまう人間がいるということは、「多数決で決められた価値」を自分の生よりも上位において生きる人間がいるということだろう。

そんな風にお金が生きる苦しみになる世の中はやっぱり倒錯している、とぼくは思う。</description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">価値観</category>
        
         <pubDate>Mon, 14 Sep 2009 20:43:14 +0900</pubDate>
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         <title>何をやっても「面白くない」のは何故か？</title>
         <description>それはたぶん、最初から「面白そうなこと」しかやらないせいだろう。

或いは「（有形無形の）成果が得られると予想できること」といい換えてもいい。目的をもって行動し結果を得ることばかりにぼくたちは慣れ過ぎてしまったんだと思う。それは要するに先が見えていることしかやらないということだ。もっというなら、行き着く先に「報酬」やそれに類するものが解りやすい形でなければ動かない。無駄を嫌う。「泣ける」映画を観に行ったり、「儲かる」仕事を探したり、「モテる」ファッションに身を包んだり、「面白そう」という言葉の向こう側に誰にも解りやすい形の見返りを期待している。だから、それらが得られないと「面白くない」。

それだけじゃない。期待したものがそれなりに得られても、それほど面白くはないだろう。当然だ。何かが得られることを想定して行動しても、成果が当初の期待を超えることはまずない。良くて期待通り。実際には、それすら稀だろう。つまり、先が見えている段階で面白さは頭打ちなのである。「本当に面白いこと」は予想できないものだし、予想できないからこそ面白いのである。そして、本当に何かを愉しんでいるとき、人はその先にある「成果」を目的とはしていない。「成果」は愉しんだ結果、ついてきたりこなかったりする。「面白さ」と「成果」に強い相関はない。

とはいえ、人は「ご褒美」に弱い。いい成績をとったら親に褒められた。あまつさえ、お小遣いまで貰った。すると、今度は褒められるために、お金のために勉強をするようになる。もちろん勉強の「面白さ」はご褒美にあるわけではない。それは、知る前と後で世界が違って見えてくる快感であり、よりよく生きるために積み上げられていく哲学であり、一所懸命にやったという経験がもたらす充実である。けれども、それら迂遠な悦びはご褒美の端的な解りやすさの前に簡単にかき消されてしまう。といって、ご褒美に満足することもまた難しい。無限の不満だけが燻り続ける。

「何のためになるのか」も、そこから「何を得られるのか」もよく解らない。たぶん、そういうものの中にこそ「本当の面白さ」はある。何も難しいことじゃない。ご褒美を忘れてすべてのものを見直してみればいい。ファッションの愉しみが「モテ」だけである必要はないし、仕事の愉しみが「お金」だけである必要もない。ぼくたちは「価値があるのかないのかよく解らないこと」として色々なことを一所懸命にやってみればいいんじゃないかと思う。何かのためではなく、それ自体を一所懸命にやる。原理的に「本当に面白いこと」が予測できない以上、そうするしかない。

お金や他人の評価みたいなものは、一所懸命にやっても適当にやっても達成した「成果」が同じなら原則として同じだけのものを得られる。けれども、自分がよりよく、より面白く生きるための糧という意味では、おそらくまるで得るものが違ってくる。それは誰にも評価なんてできないし、解りやすい価値に置き換えることもできない。いずれ、「本当に面白いこと」は「何をやるか」ではなく「どれだけ一所懸命にやるか」の問題なんだろう。陳腐な結論にも真理はある。曰わく「面白くないから一所懸命になれないのではない。一所懸命にならないから面白くないのである」。

ちなみに「面白くない」の部分は「意味がない」や「価値がない」にも置換可能だ。</description>
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         <pubDate>Tue, 08 Sep 2009 10:25:02 +0900</pubDate>
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         <title>自己決定と自己責任の圧倒的な非対称性</title>
         <description>時折、「自己責任論」をフェアなものとして捉えているらしい人を見かける。

そういう人の多くは「自己決定」による結果への影響を高く見積もりすぎているのだろう。或いは、根拠のない「全能感」の表れといってもいい。この種の全能感は人生のすべての瞬間が「自己決定」に委ねられている、という世界観を前提とする。そうした自我の世界では、いま手にしている「利」のすべては自分の手柄であり、被った「害」のすべては自分の責任である。これは一見、とても能動的な世界観に見える。が、実は逆である。何故なら、それは「自己決定」不可能な条件を「すべて所与のものとして無批判に受け入れる」ことでしか成り立たない世界観だからである。

「自己決定」という入力が「ブラックボックス」を通り、ひとつの「結果」として出力される。「自己責任論」の瑕疵のひとつは、この「自己決定」権の強制と不自由を、まるでないもののように扱う点だろう。実のところ、「自己決定」にかかる自由意思というのは極めて小さな権利しか与えられていない。そもそも「選ばない」という意思すら自己責任の名の下に「自己決定」したことになるのである。当然ながら、選ぼうにも選べない選択肢は膨大すぎるほどに存在する。酷い場合は「どれを選んでも不利益にしかならない」なんてこともある。それも、思いのほか頻繁にある。

さらに、生まれ落ちたその瞬間から与えられる「所与の条件」には、とても無視できない有意な個体差が存在する。それは「選択肢」に個人差を生むだけでなく、「ブラックボックス」の性質にも大きな影響を与える。つまり、たとえまったく同じ「自己決定」を入力したとしても、「ブラックボックス」の特性いかんによってまるで違った「結果」が出力されるのである。しかも、そうして得られた「結果」が、次の「選択肢」や「ブラックボックス」にフィードバックされ続ける。そして、初期段階の小さな入力差が、良くも悪くも、ほとんど予測不可能な差異に成長してしまう。

要するに、「自己決定」とその「結果」はまったく自明な理路で繋がってなどいない。責任を負わされるほどに成長した人間が抱える「ブラックボックス」は、ほどんど解明不可能なほどに複雑化してしまっている。つまり、「自己決定」した内容などより、その「ブラックボックス」による加工の方が「結果」に対してよほど大きな影響力を持っている。いい換えれば、もっとも素朴な「自己責任論」というのは、「いまの時代にいまの両親から生まれた」というどうにもならない事実にまで遡って、すべての環境要件と過去のすべての行動について責任を負うことを意味している。

果たして、そんなものがフェアといえるだろうか？</description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2009/09/post_361.html</link>
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         <pubDate>Wed, 02 Sep 2009 18:23:46 +0900</pubDate>
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